外国側の記録にも、大村藩の記録にも破天荒の彼の行蹟がハッキリ記されており、のみならず彼が捕縛されたところには「金鍔谷」という地名が残り、長崎の地図が手もとにないから、正しい町名なのか、昔からの通称にすぎないのかは分らないが、長崎港外の戸町へ行って「金鍔」ときけば直ちに通じる通り、彼の足跡は今も明確にその所在を残しているのである。
そこの山腹に現存する横穴の中で、彼は捕えられたのである。
地下へもぐった共産党の幹部にくらべると、金鍔次兵衛の方がシンパも少く、(彼の活躍した時はすでに切支丹の衰亡に近づきつつある時であった)レンラク、レポの組織なども甚だ幼稚であったばかりでなく、後日の彼は長崎を中心とする信徒の最も重要な支配者であり指導者でもあり、逃げ隠れが能ではなくて、最も積極的な街頭進出に、指令に、慰問に、ミサに明け暮れしたのであるが、実に数万人の捜査網をくぐり、九州から江戸の間を股にかけて七年間というもの日本中を騒がしたのである。