むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。
そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。
霊亀二年五月に今の高麗村(以下コマ村と書く)がひらかれたという続日本紀の記事に於ても、決してその年に渡来したコマ人をそこに住ませたのではなく、