それが夢にも忘れることの出来なかった夫だったではありませんか。
記事によると同月十四日銀座西八丁目の濠ばたで浮浪者がたき火を囲んでいると飄然と現われた廿五六歳、シルバーグレイのレインコートを着た色白の身なりのいゝ青年が現れて話しかけたが様子が変っているので築地署に連れて行ったところ『あゝ何もかも忘れてこの世に突然生まれたような気がする』というので詳しく聞くと近くの公衆電話の中で急に意識が霞み、扉をあけた若い女のアッという叫び声で意識を取り戻したがそれを境として過去の記憶は落莫とした忘却の彼方に消え自分の名も住所も年も忘れて銀座をさまよっていたのでした。
それから井ノ頭病院の精神科へ送られ先生達の診断を受けたところ電話ボックスの中以来のことは常人同様はっきり覚えているし文章も巧く英語も話すが、完全な逆行性健忘という病気であるということが分りました。