そういう俗情が国論となったら怖ろしいことになるであろうが、しかし、実に国をあげて俗情につきたがるような、そういうキザシなきにしもあらずでしょう。
その俗情の横行に堪えられなかった意味があるのですが、とにかく公の裁判に先立って、息子の父母殺しを論証するという、それは私にとっても大変な決意を要することでしたが、しかし一方に、それは又あまりにも事実がハッキリと物語っているのですから、それに目をそむける多くの人々の方がフシギであり、ウソの犯人を論断する危険がないかという不安に苦しむことは案外少なかったのでした。
しかし、むろん、他に犯人がありうるかどうか、考え及ぶ限りは考えつくした上で、その怖れがないようだという確信があって、やったことです。