神楽の成り立ちから彼らにとってはそうであり神楽を神に奉仕するという観念は昔から一貫して欠けているのだ。
こういう点についてみても、彼らが自分の村に所有している高天原や岩戸神社と実は精神的に結びついているものがないことが分るし、この村におけるそれらの聖地の発生というものが案外無邪気な理由からなんとなく出来上ったにすぎないものではないかということが察せられるのである。
しかも彼らの生活にはそういう根本的な矛盾を合理化しようとし、旧来の習慣を変えて岩戸神社で神楽をしてみようというような無理な努力については考えられた跡もない。