私が今日人を一目で判断して好悪を決し、信用不信用を決するには、ただこの悲しみの所在によって行うので、これは甚だ危険千万な方法で、そのために人を見間違うことは多々あるのだが、どうせ一長一短は人の習いで、完全というものはないのだから、標準などはどこへ置いてもどうせたかが標準にすぎないではないか。
私はただ、私のこの標準が父の姿から今日に伝流している反感の一つであることを思い知って、人間の生きている周囲の狭さに就て考え、そして、人間は、生れてから今日までの小さな周囲を精密に思いだして考え直すことが必要だと痛感する。
私は今日、政治家、事業家タイプの人、人の子の悲しみの翳をもたない人に対しては本能的な反撥を感じ一歩も譲らぬ気持になるが、悲しみの翳に憑かれた人の子に対しては全然不用心に開け放して言いなり放題に垣を持つことを知らないのである。