彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。
全くこれは小林流の奥義なのである。
あげくの果に、小林はちかごろ奥義を極めてしまったから、人生よりも一行のお筆先の方が真実なるものとなり、つまり武芸者も奥義に達してしまうともう剣などは握らなくなり、道のまんなかに荒れ馬がつながれていると別の道を廻って君子危きに近よらず、これが武芸の奥義だという、悟道に達して、何々教の教祖の如きものとなる。