実感は芸術以前の素朴なもので、文章で言えば手紙や日記に寧ろ最も多く見出されるものであり、それ自体としての真実は持つにしろ、だいたいあんまり本当のことを言われても挨拶のしようがないことと同じように、御尤もですという以外の幅も広さもないのである。
むしろ一々の文章にこういうひねこびた真実を強いられると、飛躍した高処に何物の姿をもとらえることができなくなってしまうばかりだ。
そのうえ、それ自らとして独立した実感を持つにしても、部分と部分との連絡の際に、曲芸を行わない限り自由に進行もできないような自縄自縛におちいる危険はありはしまいか。