そこで作中の人物でもなく、作家自らでもなく、いわば作品の足をおろした大地からは遊離した不即不離の一点に於て純理的存在をなすところの一談話者兼一批判者(形の上では、つまり narrateur と penseur が一致したような体裁である)、一でも多でも全でもあり、同時に形態としては無であるところの第四人称が、外国語では文法的に必ず設立を余儀なくされるわけである。
この種の「私」は不完全ながらも外国文学には時々用いられてきたようである。
日本語は幸か不幸か必ずしも主格の設置を必要としない。
そこで作中の人物でもなく、作家自らでもなく、いわば作品の足をおろした大地からは遊離した不即不離の一点に於て純理的存在をなすところの一談話者兼一批判者(形の上では、つまり narrateur と penseur が一致したような体裁である)、一でも多でも全でもあり、同時に形態としては無であるところの第四人称が、外国語では文法的に必ず設立を余儀なくされるわけである。
この種の「私」は不完全ながらも外国文学には時々用いられてきたようである。
日本語は幸か不幸か必ずしも主格の設置を必要としない。