(茲で「型」といつてゐるのは決して詩の定形を云つてゐるのではないから断つて置く。
だから、短歌や俳句には、既に盛るに不適当な感性が現代にはあると多かれ少なかれ感じられてゐるにも拘らず、歌人俳人の方が詩人よりも遥かに身過ぎ世過ぎは楽だといふ有様である。
それでもし、二三の人々が云ふやうに、現代生活自体が詩に反撥する所のものを有してゐるので詩が不振とならば、短歌・俳句こそ詩よりももつと不振でありさうなものだと考へてみられねばなるまい。
(茲で「型」といつてゐるのは決して詩の定形を云つてゐるのではないから断つて置く。
だから、短歌や俳句には、既に盛るに不適当な感性が現代にはあると多かれ少なかれ感じられてゐるにも拘らず、歌人俳人の方が詩人よりも遥かに身過ぎ世過ぎは楽だといふ有様である。
それでもし、二三の人々が云ふやうに、現代生活自体が詩に反撥する所のものを有してゐるので詩が不振とならば、短歌・俳句こそ詩よりももつと不振でありさうなものだと考へてみられねばなるまい。