然し若し豆腐売りのラッパは斯々の時刻に斯々の音色を以て鳴り亙ると知つてゐたにしてからが、それが鳴り出した時仮りに或る郷愁の裡にゐて、それが聞こえることがその郷愁の空を彩る一幻想としてしか知覚されない状態に人が常住あるとしたら、「間抜野郎、また今晩も豆腐が食へやしねえぢやねえか」といふことになる他はない。
蓋し斯の如き間抜野郎によつて、実感は実践的意味といふものから可なりに遠いであらう。
――そんなベラ棒な話があるものかと云はれるかも知れないが、勿論さうなるまでには彼にとつてのみの秘密である幾多の暗面、個人の長々しい心的歴史を経過するのである。