それにしてからが昔々から掛引のうまい大作曲家といふのは見当らないし、特別なのを除いて商売者は坊間音楽に涎垂らしてゐたのであるから、今更驚いてみせるにも当らないが、然し近頃ヂァズといふ素晴らしい「床上手」で、その余はまるでアンポンタンな女が民間と同時に高尚な方面でも大いに意義ありとされたり、専門家――ラヴェルにしろシトラウスにしろ、もうちよいとアスレティクになればヂャズとその精神に於て変らない様な有様で、ポール・ランドルミイや墺太利の爺さん達を除いては誰もがさういふ傾向に賛同し、却々理論家達は応援さへしてゐる所をみると、料理屋ではもはやミツバやオシタシくらゐしか売れないんだらうと思つてみてゐると、ビフテキだつて却々出るのださうだから、若し君にとつてバッハがのろいどころか親み深いものであり、シューベルトがあやしく哀しいものであるなら、ちよいとは白眼せざるを得まい。
それをいふのが、ラヴェルなんて一つの作品の何処をどれだけ切つて聴いたところで全体通して傾聴した所で、生理的影響に相違があるだけでそのほか格別変りはない程軽便で近代的であるからにはビステキを半分食ひ残したつて誰も叱らないやうなものかは知らないが、オシルコとビステキ、ミツバとビステキ――と並べてみると、がつかりするくらゐ違ふ――なんて冗談はもうよして、以下森厳の気に満ちて二三行語らうと思ふ。
クラシックはテンポが遅いどころか、「ああした深いことをもう云つてのけたのか」と、君が若しミュジックなるものの存在に耳を触れるに相応しければ当然感ずる次第なのであつたかも知れない。