教義に就いての細緻な思索などをした事のない父親を論破するのは極めて容易だのに、その容易な事をやっている中に、何時の間にか、自分の態度が我ながら厭になる程、子供っぽいヒステリックな拗ねたものとなり、議論の内容そのもの迄が、可嗤なものになっているのだ。
父に対する甘えが未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟って、こうした結果を齎すのだろうか?
それとも、自分の思想が元来くだらない未熟な借物であって、それが、父の素朴な信仰と対置されて其の末梢的な装飾部分を剥去られる時、その本当の姿を現すのだろうか?