いつたいこの相州さまは、故右大臣さまのお小さい御時分から、どういふものか右大臣さまを贔屓で、俗にいふ虫が好いたとでもいふのでございませうか、なんでもかでも、千幡さまにかぎるといふお工合のお熱のあげかたでございまして、この千幡さまに将軍家をお襲がせ申したいばかりに、御父君の時政公とお力を合せて御政敵の比企氏と争ひこれを倒し、建仁三年、千幡さまはそのお蔭か首尾よく征夷大将軍の宣旨を賜り、実朝といふ諱もこのとき御朝廷からいただいたのださうでございますが、それからすぐに御父君の時政公が、牧の方さまにそそのかされ、このお幼い将軍家を弑し奉らんと計つた時には、相州さまは逸早くその御異図を感知なされ、こんどはみづからの御父母君とさへ争ひ、将軍家を御自身のお宅にお迎へ申し、御家来衆と共に厳重に護衛いたし、御義母の牧の方さまには御自害を強ひ、御実父の時政公には出家をすすめて、幼い将軍家をからくも御災厄からお救ひ申し上げたといふ大手柄もございましたさうで、それから後も相州さまは蔭になりひなたになり当将軍家の御育成にのみお心を用ゐ、自らは執権として御政務の第一の後見者となり、今に故右大将家をも凌ぐ大将軍になし奉らんとそれを楽しみにして朝夕怠らずお仕へ申して居られたやうにも見受けられましたが、どうしたものか、さらに後にいたつては少し御様子がお変りになりましたやうでございます。
一つには、当将軍家の比類を絶した天稟の御風格が、さすがの相州さまのお手にもあまるやうになつて来たからではないかと、まあ、下賤の愚かな思案でございますが、なんだかそんな事も、後のさまざまの御不幸の原因になつてゐるやうな気が私には致しますのでございます。
まことにその建暦二年の頃から、将軍家に於いては、ひとしほ森厳の大きい御風格をお示しなさるやうになつて、相模川の橋の件では居並ぶ御重臣たちの顔色を失はしめ、また政務の方面ばかりではなく、れいの和歌の方面に於いても、このとしあたりから更に異常の御上達をなされた御様子で、ほとんど神品に近いお歌が続々とお出来になつたのでございました。