泉小次郎親平の異変のあと始末もすんで、和田左衛門尉さまのお二人の御子息もめでたく御赦免にあづかり、これで一段落かと思つて居りましたところが、三月九日、すなはち和田左衛門尉さまがお二人の御子息の宥免のお沙汰に感泣なさいましたそのすぐ翌日、こんどは義盛さまの甥の和田平太胤長さまが、やはりこのたびの陰謀に加はり捕へられてお預けの身になつてゐるのを御赦し下さるやう、義盛さまからの重ねての御歎願がございました。
私はその時お奥に伺候して居りましたので、その有様を拝見できませんでしたが、なんでも、義盛さまは木蘭地の水干に葛袴といふ御立派のいでたちで、御一族九十八人を引き連れ、みんな御一緒にずらりと南庭に列座して、胤長さま御放免の事をひとへに御歎願あそばしたとか、あまりのものものしさに、広元入道さまはお顔色を変へてお奥へ御注進にまゐりました。
この広元さまは、建保五年に出家なされて法名覚阿と申し上げる事になりましたのでございますけれども、そのずつと前からもお頭のお禿げ工合ひなどで、御出家さまのやうな感じが致して居りまして、大官令さま、大膳大夫さま、または陸奥守さまなどとお呼びするよりも、入道さまとお呼びするのが今の私には一ばんぴつたりしてゐるやうな気が致しまして、また、ついでながら、相州さまの事をお呼び申し上げるにしても、相州さまはその後に右京権大夫にもおなりになるし、また陸奥守をもお兼ねになつたのでございますから、右京兆さまとか奥州さまとお呼び申さなければならぬ場合もございますのですが、どうも、相州さまとお呼びするはうが、自然の気持が致しますので、まあ、こまかい事にはあまりこだはらず、入道さま、相州さま、とお呼びしてお話をすすめることがございましても、そこはおとがめなく、お聞き捨て下さるやうお願ひ申し上げます。