市ヶ谷の女学校に徒歩で通っていたのですが、あのころは、私は小さい女王のようで、ぶんに過ぎるほどに仕合せでございました。
父が四十で浦和の学務部長をしていたときに私が生れて、あとにも先にも、子供といえば私ひとりだったので、父にも母にも、また周囲の者たちにも、ずいぶん大事にされました。
自分では、気の弱い淋しがりの不憫の子のつもりでいたのですが、いま考えてみると、やはり、わがままの高慢な子であったようでございます。
市ヶ谷の女学校に徒歩で通っていたのですが、あのころは、私は小さい女王のようで、ぶんに過ぎるほどに仕合せでございました。
父が四十で浦和の学務部長をしていたときに私が生れて、あとにも先にも、子供といえば私ひとりだったので、父にも母にも、また周囲の者たちにも、ずいぶん大事にされました。
自分では、気の弱い淋しがりの不憫の子のつもりでいたのですが、いま考えてみると、やはり、わがままの高慢な子であったようでございます。