芹川さんの事件なぞてんで問題でなかったのです、ただ、兄さんに、もいちど逢いたい、どんなことでもする、兄さんと二人なら、どこへでも行く、私をこのまま連れていって逃げて下さい、私をめちゃめちゃにして下さいと私ひとりの思いだけが、その夜ばかり、唐突に燃え上って、私は、暗い小路小路を、犬のように黙って走って、ときどき躓いてはよろけ、前を掻き合せてはまた無言で走りつづけ涙が湧いて出て、いま思うと、なんだか地獄の底のような気持でございます。
市ヶ谷見附の市電の停留場にたどりついたときは、ほとんど呼吸ができないくらいに、からだが苦しく眼の先がもやもや暗くて、きっとあれは気を失う一歩手前の状態だったのでございましょう。
停留場には人影ひとつ無かったのでした。