プウシュキンほどの自由奔放の詩人でさえも、その「オネエギン」を物語るにあたり、この主人公は私でない、私は別の、全くつまらぬ男だ、オネエギンは私でない。
そういうことを、それはくどいほどに断ってあり、またドストエフスキイほどの、永遠の愛を追うて暮した男でさえ、その作品の主人公には、ラスコオリニコフとか、ドミトリイとかいう名前を与えて、決して、「私」を出さない。
たまに、「私」を出すことがあっても、それは凡庸な、おっとりした歯がゆいほどに善良な傍観者として、物語の外に全然オミットされるような性格として叙述されて在る。