「出エジプト記」を読むと、モーゼの努力の程が思いやられて、胸が一ぱいになります。
神聖な民族でありながらもその誇りを忘れて、エジプトの都会の奴隷の境涯に甘んじ貧民窟で喧噪と怠惰の日々を送っている百万の同胞に、エジプト脱出の大事業を、「口重く舌重き」ひどい訥弁で懸命に説いて廻ってかえって皆に迷惑がられ、それでも、叱ったり、なだめたり、怒鳴ったりして、やっとの事で皆を引き連れ、エジプト脱出に成功したが、それから四十年間荒野にさまよい、脱出してモーゼについて来た百万の同胞は、モーゼに感謝するどころか、一人残らずぶつぶつ言い出してモーゼを呪い、あいつが要らないおせっかいをするから、こんな事になったのだ、脱出したって少しもいい事がないじゃないか、ああ、思えばエジプトにいた頃はよかったね、奴隷だって何だって、かまわないじゃないか、パンもたらふく食べられたし、肉鍋には鴨と葱がぐつぐつ煮えているんだ、こたえられねえや、それにお酒は昼から飲み放題と来らあ、銭湯は朝からあったし、ふんどしだって純綿だったぜ。
「我儕エジプトの地に於いて、肉の鍋の側に坐り、飽までにパンを食いし時に、エホバの手によりて、死にたらばよかりしものを、」(十六章三)あの頃、死んだ奴は仕合せさ、モーゼの山師めにだまされて、エジプトから出たばっかりに、ひでえめに逢っちゃった、ちっともいい事ねえじゃねえか。