さうして西鶴は、さまざまな貯蓄の名人の逸事を報告してゐるのである。
「この男一生のうち草履の鼻緒を踏み切らず、釘のかしらに袖をかけて破らず、よろづに氣を付けて其の身一代に二千貫しこためて、行年八十八歳、」で大往生した大長者の話や、または、「腹のへるを用心して、火事の見舞ひにも早く歩まぬ」若旦那の事や、または、「町並に出る葬禮には、是非なく鳥部山におくりて、人より跡に歸りさまに、六波羅の野邊にて奴僕もろとも苦參を引いて、これを陰干にして腹藥になるぞと、ただは通らず、けつまづく所で燧石を拾いて袂に入れける、朝夕の煙を立つる世帶持は、よろづ此樣に氣を付けずしてはあるべからず、此の男、生れ付いて慳きにあらず、萬事の取りまはし人の鑑にもなりぬべきねがひ、(中略)よし垣に自然と朝顏の生へかかりしを、同じ眺めには、はかなき物とて刀豆に植ゑかへける。
娘おとなしく成りて、やがて嫁入屏風を拵へとらせけるに、洛中づくしを見たらば見ぬ所を歩行たがるべし、源氏伊勢物語は心のいたづらになりぬべき物なりと、多田の銀山出盛りし有樣書せける」などの殊勝な心掛けの分限者の事やら、「ぬり下駄片足なるを水風呂の下へ燒く時つくづくむかしを思出し、まことに此の木履は、われ十八の時この家に嫁入せし時、雜長持に入れて來て、それから雨にも雪にもはきて、齒のちびたるばかり五十三年になりぬ、われ一代は一足にて埒を明けんと思ひしに、惜しや片足は野良犬めに喰へられ、はしたになりて是非もなく、けふ煙になす事よと四五度も繰りごとを言ひて、」やがて、はらはらと涙を流す隱居の婆樣の事など、あきれるばかり事こまかに報告してゐるのである。